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新選組ゆかりの地を巡る旅

<場所> 京都市中京区 八木邸(新選組壬生屯所遺跡)→壬生寺→角屋もてなしの美術館界隈

幕末に活躍した新選組の大ファンである長女(はっきり言ってオタク)。
「沖田さんが・・・」「土方さんが・・・」と、まるで近所の人の話であるかのようにいつも楽しそうに話しています。
そんな長女にガイドを頼み、幕末の空気を感じる小旅行に出かけました。


八木邸
ホームページ
http://www.mibu-yagike.jp/05annai_main.html

壬生寺ホームページ
http://www.mibudera.com/

角屋もてなしの文化美術館ホームページ
http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/
JR京都駅から出発!
京都市バスD3乗り場から28号系統大覚寺行きに乗り、壬生寺道(みぶでらみち)という停留所で降車。乗車時間15分くらい。
壬生寺道停留所を降りて徒歩1分で歴史ある建物が目に入ります。
こちらは前川邸。これから行く八木邸と同じく、一時的に新選組の屯所となった場所。現在は住居になっていて見学はできませんが、外観の写真だけ撮らせていただきました。
前川邸のすぐそばに最初の目的地・八木邸があります。
入場料は、お茶とお菓子込みで大人1000円です。
「新選組発祥の地」の立て札があります。
時は1863年。将軍家茂公の上洛の際、警護の任務を当たった浪士のうち、芹沢鴨をリーダーとする13名がこの八木家に身を置きました。
この後、京都守護職・松平容保お預かりのもと京都の治安を守る「新選組」と名乗るようになりました。
門には新選組の旗印「誠」が見えます。
この門に「松平肥後守御預新選組宿」という表札を掲げていたそうです。沖田聡司や原田佐之介が嬉しそうに何度も何度もその表札を見上げていたそうですよ。「浪人」という身分だったのが、職につけた、それも松平容保公のお預かりという身分なのですから、それは誇らしかったことでしょうね。
新選組の隊士たちが腰掛けたとされる石がありますという立て札。その石は左下の写真です。
座るにはちょうどいい感じ♪
隊士たちはここに座ってどんなことを思い、話していたのでしょうか・・・。
八木邸の内部は撮影不可でした。
でも芹沢鴨が近藤勇らに暗殺されたときに寝ていた部屋、そのときついた刀傷、追い詰められた芹沢鴨がつまずいたとされる文机など、しっかりこの目に焼き付けてきました。芹沢鴨の葬儀のときに近藤勇が「きっと仇を取りますから!」と言ったとか・・・。さすが、芹沢鴨亡き後の新選組局長だけあって、切れ者ですね(笑)

最後にお抹茶と屯所餅をいただき、八木邸をあとにしました。
屯所餅は、この地方の伝統野菜の壬生菜が入っていて、あんこもたっぷり詰まったおいしいお餅でした。お土産にも買いました。
八木邸近くの新徳禅寺。
江戸から浪士たちを率いてやってきた清河八郎が、ここで浪士たちの気持ちを高めるように演説を行った場所だそうです。
長女といっしょでなければ見逃していたスポットです。この場所で浪士たちの士気が高まったのですね。
二番目の目的地・壬生寺(みぶでら)に到着。
壬生寺境内は、かつで新選組の訓練場として使われていたそうです。
現在は歴史資料室や新選組隊士たちの墓などがあります。
こちらが新選組隊士たちを祀った壬生塚。
暗殺された芹沢鴨や平山五郎、池田屋騒動で亡くなった隊士三名などの墓があります。
池には龍神像。
この前で記念撮影をする方が多かったです。
近藤勇胸像。
見れば見るほど強そうな顔。
その鋭いまなざしで、今も隊士の墓を見守っているようです。
   この壬生塚に祀られている浪士の名前が書かれています。
芹沢鴨と平山五郎の墓。
同時に暗殺されこの世を去りました。
壬生寺をあとにして、徒歩で15分ほどの場所にある角屋もてなしの文化美術館へ向かいました。そこでこんな碑を見つけました。
「久坂玄瑞の密議の角屋」
長州藩士久坂玄瑞が尊皇攘夷運動の密議を重ねた角屋ということを示すものだそうです。
角屋の外観。
角屋とは、当時の言葉では揚屋(あげや)のひとつで、「客をもてなすことを生業とする場所」だそうです。今で言う料亭ですね。
この2階で新選組浪士たちが宴会を行い、あの暗殺の晩も、近藤勇らは芹沢鴨にたくさんお酒を飲ませかなり酔わせたそうです。そして八木邸に戻ってぐっすり眠っている芹沢を襲撃。なんとも恐ろしい一夜となったわけですね・・・。
角屋には大人1000円で入ることができます。二階部分は見学時間が決められていて予約が必要です。私たちは1階部分のみ見学しました。、客をもてなす「揚屋」というだけあって、重要文化財の与謝蕪村の屏風絵や松尾芭蕉の書のほか、数々の豪華な調度品が展示されていました。また、この写真のように刀傷も残っていて、新選組とも縁が深い場所だとうかがえます。
角屋のある一帯は通称「島原」(正式には西新屋敷)と呼ばれ、「置屋」と呼ばれる、太夫や芸妓を派遣する店の「輪違屋(わちがいや)」、島原入り口の「大門」が、当時の様子を今に伝えています。

新選組の生きた時代を訪ねる旅も今日はここまで。
帰りは島原から歩いてすぐのJR山陰線丹波口駅から電車に乗り、京都駅へ戻りました。